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下田踏海に失敗した松陰たちは下田奉行所へ自首した。その平滑獄から江戸送りとなり、佐久間象山と共に取調べを受けた。先年、私は伊豆下田蓮台寺に、米艦に向う前、松陰が寓寄処とした村山邸を訪ねた。「投夷書」を認めた隠れの間、使用した机と硯、それに入浴した風呂が残っている。その時の松陰の心中を想い私の胸に熱いものがこみ上げてきた。
かくすればかくなるものと知りながら
已むに已まれぬ大和魂
江戸に送られる時の松陰の感慨である。全く無暴な企てを、彼は自己の必然的な使命として厳しく受け止め、天地神明に向ってその正当性を高らかに告現した。その時、山鹿流兵法の狭い枠組は天空に飛散し、攘夷のシグナルまで空疎なものに変りつつあった。同じ頃、函館から渡米した新島襄の幸運を思う。だが、この松陰の生贄(いけにえ)なくして、維新の胎動、回天は成就しなかったことを改めて認識したい。団子巌の松陰、重

獄中教育から発展した松下村塾
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輔の立像を吹き渡る初春の風は爽やかだった。
やがて、松陰たちは萩へ送還され、松陰は野山獄に、重輔は岩倉獄に入れられる。病身の重輔が早々と死んだ時、松陰の悲嘆慟哭は天地が崩れ落ちるばかりの激烈なものだったという。
だが、獄中の松陰に、松陰第一の天性が開花することになる。日々、読書三昧だった松陰は同囚の人たちに『孟子』を講じ始めた。1855年(安政2年)4月12日夜のこと。これはそのまま杉家幽室に続き、『講孟箚記』のちの『講孟余話』として結実する。囚人たちは松陰を中心として様々な得意分野で座談会、読書会をもった。『唐詩選絶句』『日本外史』『八家文』など多彩なテキストが使われている。「獄中俳諧」も盛んだった。
獄中で特筆すべきは、女囚高須久との交情である。中級武士の家柄の娘であった久は、養子の夫の死後、自らの三味線好きから、門廻りをする芸人と親しくなった。その芸人が被差別部落民であったため、幕藩身分制度を犯す大罪として野山獄に送られたのである。それは松陰の自由平等を基底とする人間観への痛罵として、松陰の心底を揺さぶった。生涯、女性との親交を持たなかった松陰の唯一の恋情として、私たちの心をなごませる逸話が残る。江戸に送られる松陰に、久は一句を詠み、餞別の汗ふきを渡した。
手のとはぬ雲に樗の咲く日かな
樗(おうち)は「せんだん」のこと。
文と写真・山根火土志(山根美神館・館主)
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