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20世紀末の現在、日本列島はいたるところで、過密と過疎の生活形態の大きなアンバランスに苦しんでいる。超高層ビルなどに圧迫されたコンクリートの無気質空間の中で、複雑に汚染された空気や水、そして皮膚呼吸さえ犯している各種の騒音が、都会人の神経を逆撫(さかなで)する。多かれ少なかれ、人々の心身は異常になるしかない。
一方、地方では、十軒、二十軒の民家がひっそりと寄り添っている村落が少なくない。こんな所に、一軒でよく住んでおれるものだと、私は車で山間地を通る時、幾度となく感嘆してきている。
梅雨の晴れ間、私はむつみ村を抜けて萩に向い、途中にある福栄村に入った。一年ほど前に、何となく車を踏み入れて、こんな山奥に、こんなに明るい村落があるのかと感心した。まさに桃源境を思わせる、誠に閑かな人里である。
平均標高が約350mの山岳に包まれ、平均標高が150mほどの耕地が点在する。縄文前期の石釘などが発見されていて、かなり古い時代からの居住が認められる。「紫福郷(しぶきごう)」という名前が1725年(神亀2年)の文献に出ていて、現在の「福栄村」に連るのだろう。道の駅が「ハピネス(Happi ness)ふくえ」とあるのがいい。
国指定文化財があるというので探した。黒川バス停を過ぎてすぐ左手に折れた小高い場所に、森田家住宅が佇む。 典型的な庄家構えの造りで、石垣や土壁が小さな砦を思わせる。母屋は18世紀中期の建造。表側の座敷廻りは1843年(天保14年)以前に改造され、二階屋や湯殿、便所が加えられた。正面の貫
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澄んだ空、山、川に包まれた村の格式、旧家の構え
木門(表門)を入ると広い土間の玄関に通じる。玄関前の庭と座敷の庭を仕切る板塀があり、その中に塀重門(へいじゅうもん)が立つ。上座敷の床や篭を置く台石など、藩主毛利侯が鷹狩りの休息所にも使われた跡である。
吉見家の浪人、森田対馬が黒川村一帯を開拓した功によって、苗字帯刀を許され庄屋となったのが17世紀中葉。あの幕末には、吉田松陰の養母(叔父、吉田大助の妻)がこの家から出ている。若い松陰が、松下村塾となる杉家からひと山越えて登ってきたことを想像すると、急に心の視界が開けてきて、閉された山里に維新の風が吹き渡り始める。そんな時、紫福の永田沖から市へ越す青木ヶ峠に残る「おさんギツネ」の昔話。毛利の武士が生捕ったと思ったキツネの手は、ただの棒切れだったのだ。明治維新から百五十年、いまの長州はどうなったのか。
文と写真・山根火土志(山根美神館・館主)
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