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島根、山口両県境に佛峠のトンネルがある。幼い頃、筆者にとって最高の文化地域が、旧国鉄のトンネルを抜けて田万川河口の鉄橋を渡る頃から次第に濃度を増して行き、江崎、須佐から萩を経て、長門三隅、正明市(現在の長門市)、更には特異な地名の特牛(こっとい)や綾羅木(あやらぎ)から下関に至る、あのコバルトブルーに輝く多島の海原エーゲ海に匹敵する、北長門海岸国定公園の沿岸である。
父方の縁者が病院を営む田万川町江崎は、私の幼少年期の文化開眼の地。町医者の大叔父から、銀製の小さな湯呑に、にがい茶(玉露)を入れられ、一緒に出されるお菓子に釣られて、我慢しながら口にしたものだ。自宅ではめったに味わえない利休的世界を、無言のうちに私は体験していたのである。
江崎港の奥に華麗な楼閣を誇示しているのが曹洞宗涌出山西堂寺。その例祭のたびに門前市が並び、大勢の人波の中に身を置くことが、思春期に入った私には

悲恋に彩られた地蔵を祀る西堂寺浮島
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秘かな快感であった。半世紀以上も前のこと。
帰省した私は、家族と共に、西堂寺周辺の磯に腰を下して、江崎港湾にあがる海上花火を眺めたこともある。益田市鎌手出身の画家のお供をして、絵筆を握ったりした。ところが驚いたことに、現在、明石大橋を連想させる巨橋が、港の風景を切り裂くように、傲然(ごうぜん )と架けられつつある。虚しい限りだ。
西堂寺六角堂の美しさは、背景の海と山が描き出す青と緑の屏風に支えられているのに、このコンクリートの無神経さは、いったい誰の責任なのか。故郷の祖霊たちがどれだけ悲しんでいることか。
1395年(応永2年)、海底から出現した地蔵尊を鍋山長者の妻がお堂に納めたのが始まり。開基の妙清尼である。済度寺(さいどじ)の呼称が、元禄年間に西堂寺となった。その延命地蔵菩薩を安置する地蔵堂は、1696年(永禄9年)に四角から六角円堂に再建されたが、更に1756年(宝暦6年)13世巌公欽令(げんこうきんれい)和尚によって六角堂となる。現在の本堂は、嘉永年間に火災に会った後、1876年(明治9年)に建立されている。本尊は薬師如来(春日作)で、8月24日には地蔵祭が行なわれ、益田の人丸八朔祭に次ぐ賑わいだった。優雅な趣きを湛える靜かな湾内に突き出ているので浮島と呼ばれ、満潮でもしぶきだけで潮があがらないという。身投げした娘の悲恋物語が、悠久の時の中で、いつまでも消えない。
文と写真・山根火土志(山根美神館・館主)
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